私的備忘録でもあります
信長が,永禄10年(1567年)小牧山城からこの地に移り,稲葉山を金華山,井の口を岐阜と改めて今年で450年.
「岐阜」は,地名が決められた時が明かな日本で最も古い例ではないでしょうか.
以前からミーちゃんと金華山のリスに餌を与える約束しており,今日訪れました.娘たちも30年ほど前に訪れたことがあり,そのことを知っての希望でした.
その後,岐阜城からの眺望.道三や信長も眺めたであろう景色を楽しみました.長良川の流路は多少変わったかもしれませんが.
そして,麓の岐阜公園の散歩途中に近くを通った,加藤栄三・東一記念美術館岐阜市歴史博物館へ.
今日は家族の日だそうで,小学生以下の子供と一緒の場合は,岐阜城も含め全て無料でした.それにしても,なぜ,ミーちゃんが美術館 に入りたいと思ったのか不思議です.

岐阜という町は,訪れてほしいと思うころが多々あるのに,それを上手く伝えていないなーと,ズーッと思っていました.
今回訪れてみて,やっと動き始めたかという感じで,嬉しいです.(8500)
「【阪急電車】幻の名古屋線!?京都と名古屋を結ぶ,壮大な挑戦をたどる」という,何とも魅力的なコピーに誘われて,「まいまい京都」企画のミニツアーに,大学時代の先輩で京都在住のSさんを無理矢理巻き込んで参加.

阪急京都線西院駅がスタートで,西向日駅がゴールの比較的短いコースでしたが,名古屋圏在住の私にとっては,特にディープな内容でした.

結果的にはですが「京阪」がつくり「阪急」が運営するという不合理さの 語るも涙聞くも涙の物語と名古屋へという壮大な夢に関する遺構を堪能しました.

その後,プライベート・オプションで山崎に移り,天王山周辺で,アサヒビール大山崎山荘美術館サントリー山崎蒸溜所の見学.
京都に戻り駅中でビールで乾杯.
濃密な一日でした.今度は,山崎の合戦ゆかりの地巡りをしてみたい.
Sさんお付き合いいただき,そしてスタッフの皆さんお世話になり,ありがとうございました..(20200)






午後の用事で東京に出かけた.

ちょっと早めに家を出て,午前中は東京下町の鉄道遺産散歩.
あるHPに掲載されていた日帰りツアーの一部をトレースしたもの.

まずは,JR貨物線越中島支線.小名木川にかかる鉄橋.この線,列車が数往復するらしい.それだかどうか判らないが,渡るところに出会えてラッキー.西大島駅から南へ.

次は,東京港湾局専用線の跡.100 m程度だけがポツンと残る.不思議な光景.木場駅から南へ.

そして,汐留駅—築地駅を結んでいた貨物線の跡に残る警報器.「銀座に残る最後の踏切遺産」は,新橋駅のすぐ近く.以前訪れた,旧新橋停車場は,時間が無かったので,今回はスキップ.(17800)



今日は,定点撮影以外特に目的もなく猪高緑地散歩
最近は,月1回のペースになってきた.

ところで,このコース,麓沿いと尾根沿いに別れ,両方を使って一周することもできる.私が入り口付近で写真を撮っていると,私より高齢にみえる方が,尾根沿いのコースに入って行かれた.

私は麓コース.歩いていると,前方から先程の方がこちらに向かってこられる.私のほうは,一周コースに換算すると,まだ1/3程度歩いたところ.写真を撮りながら歩いていたとはいえ,そのほぼ2倍の速度で,アップダウンの厳しい尾根道を歩いてこられたことになる.すごい.

息子が軽い夕食をとってから帰るというので,さて,筍の天ぷらでもつくることにします.私の酒の肴も兼ねて.
主賓は留守だけれど,今年も母の日は恒例の天ぷら.(万歩計を持たなかったので,歩数は不明)

仮想「おくのほそ道」の旅は,まだ弥彦に着かず.
先日訪れた垂井.
ここは,東海道と中仙道を結ぶ美濃路の中仙道側の追分の地.

そんなことを知って,美濃路をきちんと歩いてみたくなった.
美濃路は,信長が桶狭間へと駆け,秀吉が小田原攻めの際に通り,関ヶ原の戦いでは福島正則が美濃へ進軍し,家康が凱旋した道で,「吉例街道」とも呼ばれています.
これまで,名古屋宿から岐阜街道との四ッ谷追分まで歩いたことがあるので,まずは「宮の渡し」近くにある東海道との追分から名古屋宿本町(札の辻)まで歩いてみた.

途中,信長塀を見ようと熱田神宮を訪れたところ,神輿渡御神事に出合う.これは,草薙神剣が皇居から当神宮に還座した際の故事に由来するもの.しばし拝見した後,一路北上.
源頼朝生誕の地や佐屋街道の追分などを訪れながら,少々疲れて名古屋宿まで.

それにしても暑い一日でした.(19600)
仮想「おくのほそ道」の旅は,弥彦までたどり着けず.
関ヶ原から東海道本線でひとつ隣の駅「垂井」.
ここは,美濃国府が置かれた地.

当初は,相川を渡る鯉のぼり,中仙道垂井一里塚と廃止された「新垂井駅」跡地(何となく形容矛盾に聞こえるけれど)を訪れる事を目的に,昨日下車
新垂井駅は,あるトラベルミステリーで,走行中の列車が行方不明になるというトリックの現場.

一抹の不安が的中して,祝日のため目的地付近までの巡回
バスは運休(気になってネットで調べたものの気付かなかった).不破関ゆかりの地を廻ったあとにさらに徒歩で往復8kmは結構キツイ.さりとて散歩にタクシーを使うことは潔しとしない.
そんな訳で,新垂井駅跡はまた今度.

その代わりに町中を彷徨っていたら祭り囃子の音.八重垣神社の例祭「垂井曳山」と子供歌舞伎狂言に偶然であい,それを堪能しました.
相川の鯉のぼりは,桜の季節から行われているとのこと.来年春,また訪れてみたい.

ところで,不破関編で訪れた黒血川の説明に,「青野ヶ原の戦い」においても,この川が重要な位置を占めたことが述べてあった.
調べてみたら,南北朝時代の1338年に北畠顕家率いる南朝方と、土岐頼遠ら北朝方(足利勢)との間の一連の戰があったところ.
そういえば,このことはどこかで読んだ微かな記憶が.
青野原は,現在の垂井町と東の大垣市が接するあたり.
前回,2回の天下分け目の戦いと書きましたが,これも,もう一つの天下分け目の戰かも.

久しぶりの13km散歩.
仮想「おくのほそ道」の旅は,
新潟に到着.
関ヶ原.
2回の天下分け目の戦いが行われた地.
今日は,壬申の乱ゆかりの地を訪ねてみました.

不破関は,壬申の乱の直後につくられたことを知りませんでした.
もっと前からあったのかと.
歴史好きを自認していましたが,現地を訪れて,知らなかったことがあまりにも多いと痛感しました.
不破関跡は,枕詞にもなっていたんですね.
芭蕉は「秋風や 藪も畠も 不破の関」

そうなんです,民家の裏の畑の中に,伝大海人皇子の兜掛石と沓脱石.少し西に行くと大海人,大友両軍が対峙した「関の藤川」.さらに行くと,弘文天皇御陵候補地・「自害峯の三本杉」.その麓には「黒血川」.新幹線がひっきりなしに渡ってゆきます.関ヶ原は,今も西と東を結ぶ地.

なお,不破関守の館跡では,関守の末裔である三輪家が所有する庭園「関月亭」がその一部として公開されています.

あまりにも見たいところが多すぎる.ある程度土地勘と距離感がつかめたので,今一度訪れたい所です.その後は,関ヶ原の戦いゆかりの地巡りが待っている.こちらも2〜3回かかるかと.(22900)

仮想「おくのほそ道」の旅は,この後に垂井地区を歩いた分を合わせると,やっと新潟に到着.
名古屋では桜の季節が過ぎ,ゴールデン・ウィークは藤の花の季節.

4年前から出かけるようになった藤の花巡り.
3年前に訪れた時はちょっと遅かった藤波の里・津島,天王川公園を再訪.
2回連続して2人で散歩に出るなんて,絶えて久しかったこと.

津島は,津島牛頭天王社と称された津島神社,津島信仰の総本社のあるところ.そして,かつては津島湊と呼ばれ,尾張の台所であった地.織田信長は,津島の財力を背景に尾張を統一したといわれます.
今は,濃尾平野の中に位置しますが,津島神社前にあった交番には,海抜0メートルの表示.

汗ばむ陽気の中,満開近い藤の花を楽しみました.(12800 万歩計が何故か途中でスリープ)

仮想「おくのほそ道」の旅は,まだ新潟に到着せず.
今日は,午後から理学系同窓会理事会のため出かける予定.

そんな訳で,午前中に猪高緑地散歩.
約40日ぶり.
すっかり風景は新緑に.でも所々に春の名残も.
今年の桜は長いこと元気だ.

途中で,かつてお嬢さんだった方から,道を尋ねられる.どうやら,東へ進むべき所を南に約1.2 km進まれたようだ.
これも一期一会.
急に暖かくなった晴天の日曜日.
早咲きの名古屋市東区のオオカンザクラと八事香積院のしだれ桜を訪ねてみました.

美しかった.訪ねてよかったです.撮した写真は125枚. 選ぶのがたいへん.

というわけで,まずは,泉2丁目〜白壁の桜並木を桜紀行2017にアップしました.

泉2丁目〜白壁のコース,閑静な高級住宅街.
川上貞奴の旧邸宅,武蔵国忍城下から現地に移された長久寺とその境内にある寛文八年(1668)に寄進された庚申塔や悲しい伝えのある尼ヶ坂と坊ヶ坂など,桜のほかにも見所がたくさん(5年ほど前に,なごやかウォークで一部訪れたことが).
 
名鉄瀬戸線沿線のソメイヨシノはチラホラ.(15600)

仮想「おくのほそ道」の旅は,新潟までの道のりまだまだ遠し.

新1年生となるミーちゃんと約束をしていた,通学の練習散歩を今日実行.
彼女の家から学校までは約1.2 km.帰りには,アイスクリームを食べるために喫茶店デビュー.

いたるところに春.

我が家が当地に引っ越してきた時の前年度までは,この小学校の校区だったため,それまでは1年生でも片道約2.5 kmの道のりを通学していたとのこと.

ちなみに,私の田舎の家は学区の南端に位置しています.そして,小学校の社会科だったかの授業で,繩を使って通学距離を実測したことがあり,約1.3 kmでした.もちろん,1限40分(?)で,測定が完了するはずもなく,おおらかな時代でした.(9900)

仮想「おくのほそ道」の旅は,新潟までの道のり通し.

3時過ぎに猪高緑地へと散歩に出かける.
途中の道路,いつもの週末と比べると通行量が少なくて靜か.

目的は,早春の井堀の棚田の定点撮影と河津桜. 河津桜の咲き具合は,昨年一昨年と比べると1週間から10日間ほど遅いようだ(桜紀行2017をご覧下さい).でも,井堀の棚田には何となく春の気配.

井堀の上池と下池は,水が抜かれ葦などが切り払われており,初めて足を踏み入れてみた.こんなに広かったのだとビックリ.(8500)

仮想「ほくのほそ道」の旅は,新潟までの道のり通し.

先週,途中で諦めた鳴海〜星崎散歩の続きに出かける.

鳴海での今日のハイライトは,鳴海球場跡.
1931年と 1931年には,ルー・ゲーリックやベーブ・ルースらメジャー・リーガーが試合をし,1936年には初めてプロ野球の公式戦(東京巨人軍(3)対名古屋金鯱軍(10))が行われ沢村栄治が投げた球場.
今は,自動車学校になっていますが,外周や残った一部スタンドに野球場だったことが偲ばれます.
ちょうど,昼休みの時間だったので,職員の人にお願いして,敷地内にあるモニュメントを見せていただく.

もう一つは,桶狭間の戦いの遺跡,鳴海城跡と善照寺砦跡,前者は今川方の猛将岡部元信が守り,後者はそれを攻めるために信長が築いた三砦のひとつ.実際訪れてみると,両者は目と鼻の先,本当に近いところで対峙していたことにビックリ.

その後,鳴海から一駅の名鉄「本星崎」まで歩き,ここをスタートとゴールとする星崎コースへ.

このあたりは,笠寺台地の先端で,歌枕としても知られた年魚市潟(あゆちがた)に面していたところ.
そして,星宮町,星崎町,星園町,星崎城や星宮社など星にゆかりのある地名がたくさんある.

それもそのはず,1632年に星宮社の南の南野村に隕石が落下し,そのほか8世紀と13世紀にも同様の言い伝えが.江戸時代の隕石は,喚続神社へ寄進され、社宝となっている.
言い伝えが確かなら,まさに星が訪れる地.(24700)

仮想「おくのほそ道」の旅は,村上を過ぎて,新潟へ.

前夜の予報では大雪(あくまでも当地での基準ですが)の可能性有り.
今朝,雪が降りそうだったら諦めようと,外を見るとその気配はしない.
それではと,最近見つけたサイト「名古屋コンシェルジェ 歴史まち歩き」に紹介されているコースを歩くことに.
全部で36コースあるけれど,半分くらいはすでに歩いたかも.
以前,桶狭間古戦場を訪ねた帰りにちょっと立ち寄り,改めて訪れてみたいと思っていた東海道 有松へ.「有松」は,「池鯉鮒宿」と「鳴海宿」の中間に位置し,五十三次には入っていないものの,「有松絞り」で栄えたところ.
ところで,このサイトで紹介されているコースはすべて観光向けで,私にとっては短すぎる.それならと,東海道を鳴海宿まで歩いて鳴海コースもあわせて訪れることに.
しかし,鳴海宿への途中から雲行きが怪しくなり,鳴海コースを歩いていると雪が本降りに.そこでやむなく途中で撤退.
鳴海の近くには,星崎というワクワクするような地名があります.なんせ,「星」と「崎・岬」ですから.今度,こちらのコースと合わせて訪れることにしましょう.(18700)

途中でGPSのログがとれなくなってしまった.そんな訳で,歩行記録は3.3 km.
仮想「おくのほそ道」の旅,今日は村上に到着できるかと思っていたけれど,未だその途中.
晴れていたものの,風が冷たい一日.

今年2回目の猪高緑地散歩

久しぶりに尾根筋をたどる.
定点撮影のほかには特に目的はなし.御嶽山が遠望できるかと期待したけれど,薄い雲がかかり見えず.(11800)

仮想「おくのほそ道」の旅は,村上までの道のり遠し.
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