私的備忘録でもあります
名鉄は迷鉄といわれるほど,名鉄名古屋駅での乗車位置が複雑で難しい(ホームの色分けに気づけば,多少は簡単になるものの).

それと同じくらい複雑な路線をはしって,予想もしない所まで直通運転をしている.
名鉄岐阜駅発の電車には様々な行き先があるが,それらの多くは名古屋本線を南下して名鉄名古屋駅を直接経由している.

しかし,朝の何本かは,各務原線で東に向かい,犬山駅から犬山線を経由した後に名古屋本線に戻りやっと名鉄名古屋駅を経由し,それぞれの目的地に向かう.何故こんな大回りになる直通電車が運行しているのか良く判らないが面白い.

しかし,そんな直通運転が,3月のダイヤ改正で消滅すると知って,〇〇たちにあきられながら,乗車してきた.

今日の乗車は,犬山線から名古屋本線にもどった後に常滑線そして空港線に入り中部国際空港(セントレア)駅まで.各務原線は普通でそれ以降は準急になる電車ダイヤ.
名鉄岐阜駅 08:30発 中部国際空港駅 10:33着,87.0 km,2時間3分の鉄分補給でした.

名鉄岐阜駅へ行くにも,名鉄名古屋駅に帰るにも名鉄を使ったので,実際は158.1 km.結構な長旅だった.(8400 歩)
江戸の昔(まあ,今でもそうだけれど),東海道を西に向かう旅人は,限られた場所で富士山を進行方向左手に見ることになり,それは左富士と呼ばれていた.

下り東海道新幹線の場合,富士川橋梁手前の有名な富士山ビュースポットでは,天候に恵まれさえすれば,右手に雄大な富士山を見ることができる.そして,このあたりでは,車内にシャッター音が響く(私も音を立てる一人).

その後,静岡駅を通過して,安部川を渡ると僅かの間進行方向が南北になり,20秒間程度の限られた車窓から左富士を見ることができる(はず).

この一年間,18回の新幹線往復の際に,この左富士を撮そうと試みた.しかし,例年と比べると天候に恵まれなかったこともあり,成功したのは3回.
そして気がついてた.電線や建物,防音壁などに邪魔されず,なんとか富士山全体をキャッチできるの位置は,左の写真を撮したほとんどピンポイントだけであることを.

この左富士を見るチャンスはそれほど多くはないこともあり,「幸せの左富士」とも呼ぶらしい.
東京駅コンコースでも、創建当時の赤煉瓦が見られることに、今日気づいた。
今日は、まず中央線を西に。

そして、青梅線鳩ノ巣駅@奥多摩へ。
白丸ダムの魚道この写真が撮りたくて、帰る前に、はるばる寄り道。

まったく、何をやってんだか。(9300 歩)





東京駅到着直前、先頭車両に乗っていることを思い出し、自撮りをしてみた。(8800 歩)







時の経つのは何と早いことか.備忘録代わりに書いているFBは,いろんなことを思い出させてくれる.

2013/09/28,名古屋から函館へ飛び,友人のお墓参り.心優しい彼は,「来るのが遅い」とは言いませんでした.夜は,山形からやってきた友人と一杯.

翌日は,北海道新幹線開通をひかえ,訪れることができなくなる竜飛海底駅に降り立つため,函館→竜飛海底駅→函館→青森という,何をやっているんだかと言われそうな旅.

翌々日は,新青森7:42発はやぶさ8号と東京11:30発のぞみ29号を乗り継いで,地下鉄名古屋大学駅を出たのは13:53.

午後いちの会議(司会は私)に滑り込みセーフ.ダイヤ通り運行してくれたJRに感謝!(連結するスーパーこまちの関係で,盛岡発は4分遅れ.それを,東京までに取り戻してくれた)

そんなことがありました.

追:調べてみると,現在は新青森発が 07:43はやぶさ10号に変わった以外,大きなダイヤ変更はないようだ.
奈良市内散歩中,おそらくパンフレットに載っていない素敵な場所を発見.

興福寺の周囲には手軽に(+私の好みで)食事をとることができるお店が見当たらない.
そこで,隣接する奈良県庁舎に食堂はないだろうかと出かけてみた.
食堂自体がないのか,もしくは開放していないのか,それらしき表示は見当たらない.案内で聞けばよいのに,私はそれが苦手.

諦めて帰ろうとした時,屋上が開放されていることに気付く.
イヤー,正解だった.
遠くは三輪山,大和三山や二上山を望むことができる.
近くには,興福寺や東大寺が.

チャント説明版も用意されている.
お勧めですよ.

結局時間がなくなり,近鉄奈良駅構内のコンビニのおにぎりで超遅い昼食.柿の葉寿司はお土産に.
1週間ほど前,ふと思い出した.

春は中止になった興福寺の特別公開.秋はどうなんだろうと.
そして,一昨日思い立った. そうだ奈良行こう!

約120年ぶりの大規模修理に入る前の,興福寺五重塔初層内陣の拝観.
礎石の上に置かれただけの高さ50.1 m,一番下の部分の直径 1.5 mの心柱.
普段は直接見ることができないこの構造が,絶妙のバランスをとっている.

私が勢至菩薩が好きになり,そして私の干支守り本尊だと知ったのは,高校時代に訪れた興福寺だと思っていた.確かに,西方 阿弥陀如来の脇侍坐像として五重塔初層におわした.しかし,私の記憶にあるのは,もっと小柄な立像.その方を探して国宝館も含めて彷徨ったが,ついにお目にかかることはできなかった.何故だろう.

ひょっとしたら,私の記憶が混乱しており,すぐ近くにある奈良国立博物館におわすのか.しかし,今日は時間がなかった.近いうちに出かけることにしよう.(13800 歩)

仮想「四国八十八箇所巡礼」は,第五十七番栄福寺さんに参拝.
今回の新潟の旅では,小学校の社会の授業を思い出すことになった.

私の趣味のひとつは,マンホール蓋を写すこと.これは,そこを訪れないとできないことなので,お手軽な旅の記録になる.
始めたのは,約11年前の宇和島にて.牛鬼のデザインが気に入って写した.

新津駅前のマンホール蓋には,「花とみどりと石油の里」.小学校の時に習った新潟の油田は,旧新津市にあったのかと.....

長岡駅の少し南.しらゆきから何となく外を見ていると,炎を上げている煙突のようなもの.一瞬何なのか判らなかったが,ガス田かと気付き,押っ取り刀で写してみたがピンボケ.

こんな所にガス田があるのかと調べてみると,その開発は1970年代後半で,生産開始は1984年とのこと.どうりで記憶にないはずと納得.

こんなことがあるから,ブラリ旅は楽しい.
新潟駅はいくつもの路線が集まる鉄道の要衝.

多くの0キロポストを見ることができると思っていたが,やはり現地に行って見なければ判らない.大きな駅なのに,すべて下り扱い.

上越新幹線の起点は大宮駅.今はズタズタに分断されているけれど,信越本線は高崎駅.まあ,これらは判らないでもない.
しかし,越後線は柏崎駅で,白新線は新発田駅が起点.工事がどこから始まったかなどの歴史的経緯があるのだろうが.....

結局,新潟駅での収穫はゼロ.
もうひとつ判ったこと.白新線は何故白新線?これは,信濃川をはさんで新潟駅の隣にある白山駅と新発田駅とをつなぐとした元々の計画に由来するそうな.

これらのこと,後付け的に言えばネット情報だけでもわかるのだけれど,今回は現地に行って,何故だと思いネット情報に辿り着いた訳で,やはり現場を訪れることは大切だ.

結局今回は,かつては鉄道の街であった新津駅で羽越本線0キロポストをパチリ.
柏崎駅では,越後線の最も小さい距離数字.起点はもう少し改札口よりにあるようだ.
私はつくづく北陸新幹線に縁がないらしい。

今朝まで迷ったけれど、北陸本線の特急がストップするとのことで、今回もやむなく断念。そもそも、台風とご対面のルートを選ぶことは無謀なわけで。

結局、予定を早めて、なんとも面白味のない新幹線乗り継ぎで帰ることに。

本当に台風が接近しているかいなと思うほどの青空、そしてフェーンで気温が上昇中の新潟を後に。
国境の長いトンネルを抜けると曇天だった。
そして、東京近くでは所々で激しい雨と出あった。

東京駅で、厚岸駅前の氏家かきめし発見。美味なり。隣には、横川 峠の釜飯が。
新潟方面に来る機会がったら是非訪れたかった所.

海に近い駅のひとつ青海川駅.ホームの下は波が寄せる浜.

昨日は,草木が茂るデューンに行く手を阻まれて見ることができなかった日本海を,今日は見ることができた.

海駅といえば,愛媛県伊予市のJR下灘駅やJR鶴見線の海芝浦駅も.夕焼けが綺麗だった.(14000 歩)
最初に新潟を訪れたのは,1972/04.大学に入学したものの学園紛争の残り火で,大型連休明けまで講義はなし.

特にすることもないので,高校時代の友人が入学していた新潟を訪ねた.携帯もネットもない時代どうやって連絡を取り合って彼の下宿まで辿り着いたのか.旧国鉄時代の北陸本線と信越本線を乗り継ぐという印象的な旅だったはずだけれど,なぜか記憶がない.

その当時の五十嵐キャンパス.友人は五十嵐砂漠といっていた.
その名残か,今のキャンパスには松の木が茂り,大学への途中には坂井砂山という地名.

時間があったので,日本海を見ようと歩いてみたが,海辺近くで草木が茂るデューンに行く手を阻まれてあえなく撤退(15800 歩)
2週間ほど前,偶然見つけた渋谷駅界隈のネット記事.
東急百貨店東横店西館が解体され,このビルの中に隠れていた銀座線渋谷駅旧ホームのコンクリート覆いが姿を現したとする内容.

その記事に寄れば,この旧ホームは 1938年(昭和13年)に設置.その後,1954年(昭和29年)に東急東横店西館ができて,その中に包まれてしまっていた.それが,68年ぶりに日の目を見ることになったのである.

しかし,これも新たに建設される西館に再び飲み込まれてしまうらしい.

そこで,江戸詰を利用して訪れたが,すでにコンクリートの覆いの外側には鉄骨が組まれ,再び飲み込まれる手はずが進んでいた.
あと1週間早ければ,もっときちんと見られただろうに.残念.

まあ,今回の江戸詰にあわせるように記事を見つけたことは,不思議なご縁とも言える.(7300 歩)
今日は東京を通過し大宮の鉄道博物館へ.

江戸詰をするようになってからズーッと訪れたいと思っていたが,残念ながら前泊の火曜日は通常休館日.開館される8月が唯一のチャンス.

偶然,数日前にあるHP記事を読んだ.それによれば,ここに展示されているEF55形電気機関車は,1945年8月3日,沼津機関区で米軍機の機銃掃射をうけたもの.外回りは修復されているが,運転席の天井には貫通した弾痕が残っている.まるでシンクロするように,どうしてその記事へ辿り着いたのかを思い出せないが,ほんとうに不思議なご縁だ.

目的のひとつは,ビューレストランで,今様のハチクマライスを食べること.
本来は乗務員のまかない飯のハムエッグ丼.ここのハチクマライスは,ハンバーグなどがついていて,名前を思い出せないが,どちらかと言えばハワイのローカルフード目玉焼きハンバーグライスといったところか.

パノラマデッキから上り「かがやき」をパチリ.

今日の滞在は正味2.5時間.ここは,もっとゆっくり来るべき所だ.(13200 歩)
伝教大師最澄没後1200年記念企画展「仏像をなおす」を見に,大津市歴史博物館に出かけた.

偶然にも,出かける少し前に小説を読んでいて,大津市内に木曽義仲公の墓所義仲寺があり,遺言により芭蕉翁もそこに眠っていることを知った.

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」



私は,てっきり芭蕉が詠んだ句だと思っていた.HPの記事によると,小林秀雄が「平家物語」を書いた頃は,事実そう思われていたらしい.

実際は弟子の島崎又玄の作句だと今回知った.そして,二人を追善するのに相応しく,義仲寺に似合う句だと思いながら帰路についた.

しかし,いただいたパンフレットを読み返すと,この句は無名庵に滞在中の芭蕉を訪ねたときに詠まれたもの.

それから3年後に,芭蕉はなくなった.

このことを知ってもなお,私はこの句が二人を追善するのに相応しいと思えてならない.(12900 歩)
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